わかさぎ

感じたことを書きます。

100即して

誰にだって、足音なんか気にしないで玄関をヒールで飛び出した夜がある。自分にとってのそれは、夜の繁華街へと足を運び、出会いを求めた日々。

いつも通り電車で1時間ほどかけて眠らない街へと向かう。途中、トンネルを抜けると車窓から見える大阪平野の夜景は息を呑むほど綺麗で、毎日見ても全く飽きなかった。そのビル群は、人が紡いできた歴史が感じられる京都のそれとはまた違って、急に立ち現れたかのような文明的な美しさがあった。「夜景は誰かの残業で出来ている」とはよく言ったもので、車内の疲弊したサラリーマンを見るたびに、こんな遊び方ができるのも今だけなのかなとか将来働きたくないなとかそんなことを何度も考えた。誰かに会う予定があるわけでもなく、何時に帰るか決めているわけでもないのに電車に揺られて遥々遠くの街へ向かうことは、いくら繰り返しても不思議な感覚がした。

いつもの駅で降りると、見慣れた橋の景色。混沌という言葉以外で形容することのできないこの橋でどれくらいの出会いが生まれたのだろう。初めて訪れたとき、そんなことを思った。他の観光客と同じように、ネオンサインに興奮してポーズを真似して写真を撮った日が懐かしい。ここには沢山の人がいる。各々の事情でこの街にやってきた皆がこの橋を通る。この街で起こる全ての出来事を静かに見守り続けているかのような、この街に生きる全ての人々を最終的に受け入れてくれるかのような、そんな堂々とした、清濁合わせ呑むこの橋が好きだ。

この街で経験したことに思いを馳せてみると、色々な景色が浮かんでくる。靴の裏が擦り切れるほど歩いた大通り沿いのあの道。夜の世界特有の生々しさで溢れたあの裏通り。何度も同じ缶チューハイを飲んだ年齢確認のいらないあのコンビニ。商店街を颯爽と駆け抜けるスケボー少年を横目に、何度も通ったクラブ。終わった後いつもみんなでワイワイ食べたまぜそば屋。いつも同じようなところで遊んでいた気がする。それは、まだこの街に対する微かな恐怖心が残っていることの現れなのか。それとも誰かと一緒に過ごした思い出に縋っていたいからなのか。それとも、、

f:id:pua_4u:20231109161550j:image

大学に入学してからずっと、漠然とした空虚さを感じていた。通学してバイトして帰るだけの普通の日々。自分は特別な存在だとか思っていた訳じゃないけど、やっぱり奇想天外なキャンパスライフみたいなものへの期待があって、それに比べたらこの生活って質素だなみたいな思いがあった。そんなことを思いながらも、このまま特に何もなく卒業して就職していくんだろうなとか考えながら惰性で生きていた。当然恋人もできなかった。そんな退屈を埋めてくれたのは、『ナンパ』だった。きっかけは、実際に街で目にしたナンパ師か、SNSで発信する恋愛業者の広告か、あるいは書店で立ち読みした恋愛工学の本のいずれかだった気がする。学校に貼られた知的好奇心を唆る類のチラシには全く惹かれなかった自分だったが、出会ってすぐにやりたいと思ったことを覚えている。紆余曲折あって街に出始めたのだが、声をかけるという行為は、想像しなかったほどに世界を広げ、価値観を変貌させ、多くの人物を日常に登場させてくれた。

凝ったオープナーが使われたYouTubeの声かけ動画に魅了されたのは事実だけど、いざ自分が声をかけるとなるとそこまでピエロにはなりきれなかった。主に第一声は「おつかれ!」間髪入れずに気温の共感、「今日、寒くない?」ほとんどは無視されるけど、会話に応じてくれる優しい人もいる。「俺いまバイト終わり散歩しててんけど、そしたら散歩仲間見つけて、嬉しくて声かけちゃった!」自然なのか不自然なのか分からない状況開示。あくまでも散歩してたら可愛い子がいてフラッと声をかけた設定。適当な連れ出し理由をつけて歩き出す。「彼氏とかいないのー?」「えー俺も彼氏いない!」100回以上使ったテンプレ、体感70%くらいウケる。「就活終わったし、彼女もおらんからたまに声かけるー」こんな適当な嘘の自己開示で警戒心は解けていたのだろうか。「結婚相手見極めるためにも、沢山の男見とくの大事じゃない?」「遊べるのって今の若いうちだけよね」誰かのノートに書かれていた価値観トーク丸パクリ。形式的な理由付けは今後の展開の正当化。「30分だけデートしよ」しれっと個室搬送。ギラついて即。いつものルーティン。クラブでも自己開示が減って、テンションが高めになるだけでそんなに変わらない。

様々な場所、時間帯で出会いを求め続けた。しばらく活動を続けていると、同じ目的で街に出る友だちもできるようになった。出撃の度に男女問わず誰かとの出会いがあり毎日が刺激的だった。色々な景色が浮かんでくるけど、それは誰との思い出だっただろうか?

吐く息が白くなってきた頃、連れ出し先でお互い顔の半分以上をマフラーに埋めてベンチに座り、半分ずつ飲むコンビニのココアは本当に体に沁みた。街をクリスマスカラーに染めるイルミネーションはさっきまで他人だった誰かと恋人ごっこをして一緒に見ても綺麗だった。冬はほとんどの人が消える修羅の季節だとか言いながらあの人は暖かくなるまで毎日街にいた。寒空の中、グリコサインの下で始発までナンパについて語り合った大好きなクラスタは、就職するや否や彼女を作って活動を辞めてしまった。初めて行ったクラブでは異世界のような光景に尻込みし、オレンジジュースをストローで1時間かけて飲んだだけで声をかけられずに終わった。

春先の鴨川の河川敷に連れ出した子と座りながら、高校時代はここで当時の彼女と手を繋ぐことすらできなかったなとか懐かしい気持ちになった。梅雨の頃、キセクと水族館に行ったけど、好きになりそうでそれ以降会うのをやめた。梅田のホテルに宿泊した後解散し、高層ビル群に向かって小さくなっていく女の子の背中を見つめていたその時、シティーボーイになれた気がした。夏前にヨネスケした白を基調としたあの子の綺麗な部屋を思い出すためにはAvicciのDear Boyを聞けば十分だった。キセクにもらったシンプルなデザインのパーカーを着てクラブに行ったら、たまたま遭遇してこっ酷く叱られた。

夏休みの数追いはしんどかったけど馬鹿みたいに楽しかった。チャリの後ろに乗って夜風に吹かれながら駆け抜けた心斎橋筋商店街の景色は、特にいつもと変わらないけど一生忘れないような気がした。ほとんど毎日みんなとクラブに通ったけど、結局最後まで、ひよこからの東京の意味は分からなかったし、カミカゼが一気飲みできるようにはならなかった。朝、みんなで食べた1000円の塩味のまぜそばは負けた悔しさを浄化するほど美味しかった。泣きながら身の上話をしてくれた純粋そうな子が友だちのクラスタにも即られていたと知り、同情したことが馬鹿馬鹿しく思えた。担当のために出稼ぎに行かなきゃと話す同い年のキセクに、性愛の多様さを教わった。一門と称して結成した仲良し集団での飲み会、カラオケ全部楽しかった。ハロウィンの日に街を這いずり回った挙句出会えたチャイナドレスのあの子は、いつまでも訛っていて欲しいなと思った。

列挙しきれない。即、連れ出し、アポ、クラスタとの出会いの数だけ思い出がある。

f:id:pua_4u:20231109155423j:image

当初は、手遅れになる前に女攻略に取り組もうとか非モテの自分を変えたいとかそんな大層な志があった気がするけど、街に知り合いが増えるたびにそんな思いは消えていき、単純に誰かに会える嬉しさを動機に街に出ていた。わかさぎという名前を名乗っている時だけ、街の全てが出会いの場となり、遊び場となる。そんな日々が心から楽しかった。元々何もなかったに等しい自分の大学生活は無数の匿名的、刹那的な出会いで満たされていった。

「こんな風にじゃ無くて普通に出会いたかったな」ある日キセクに苦笑しながら言われた。

普通の出会いとはなんだろう?ナンパという非日常が日常になりつつある時ふと思った。

ナンパして声をかけることで始まる出会いは作為的で、おそらく普通ではない。少しだけ一緒に散歩してまた会おうとLINEを交換したけど既読無視されて関係は終わる。一度は心を許してくれて、今度はお昼に会おうと約束するも叶わずキセクとの関係は切れる。クラブで出会い互いの身の上話をして盛り上がるも連れ出し打診をした瞬間に破綻して、その子と二度と会うことはなくなってさよなら。運命の安売りによって無理に生み出された関係は当然儚い。例え本当に運命の出会いだったとしても。

クラスタとの関係もそう。夜通しコンビするほど仲が良かったのに、引っ越して二度と会えなくなる。地蔵トークを何度もしたのに、急に引退して別れの言葉も無しに疎遠になってしまう。一緒に手遊びする仲なのに唐突のラストダンス宣言。Twitterを通じて知り合った仲は、ナンパという趣味のための一時的な関係という向きが強く、どの日が最後に会う日になるかは分からない。ナンパという継続が難しい趣味なら尚更そうだ。女の子もクラスタも自分の前に現れては去っていく。多幸感の裏で、夜の街で目まぐるしいスピードで出会いと別れを繰り返す日々に意味はあるのか何度も自分に問いたくなった。

ナンパ以外の出会いに目を向けてみる。学校、習い事、バイト先など様々なコミュニティでの出会い。偶然にも同じ集団に属し、同じ目的で何かをするいわゆるリアコミュと呼ばれるそんな関係。これらは確かに普通の出会い方と言える。けど、永遠に続く強固なものだと言い切ることはできない。小中高の同級生で連絡を取っているのは両手に収まる数くらいしかいない。月1で会うとなると数人もいない。一度同じ校舎で学んだ仲でさえ、卒業したら別れるのは一瞬。一生の親友と双方が信じてやまなくても、物理的に距離が離れてしまえばお互いを思うことも会うこともほとんどなくなる。みんな偶然に再開すれば挨拶くらいは交わすんだろうけど、同じコミュニティに属していることによる共通言語を無くしたその関係は、出会った当初のものと異なりコミュニケーションにどこかぎこちなさがあり寂しい気持ちになる。

ナンパで生まれる脆い関係から少し離れて、いわゆる普通の出会い方に目を向けてみたけど、結局その関係もいつかは終わりが来るし永遠に続く関係ではない。人間関係はどんな始まり方をしたとしてもマクロな視点で見れば刹那的であり、不完全である。ナンパを通じて出会い別れをくり返すうちに、人との関係はそもそもどこか物足りなさを感じるうちに終わってしまうものだと気づいてしまった。

自分のことを誰かに心から理解してもらいたいし、誰かとずっと繋がっていたい。けど、きっとそれは無理なんだろう。悲しくも結局辿り着くのは孤独なのかもしれない。それなら、初めから誰かと分かり合おうとすることを諦めれば傷つかなくて済むんじゃないか?いや、それは違う。誰かの人生に一瞬でも登場できることそれだけで、言いようのない嬉しさがあるし、やっぱり人と関わることをやめたら人間らしさを無くしてしまう。ナンパを通じて、人間関係とは何かについて考える機会が増えたけど、いつもこのような堂々巡りに陥ってしまう。

f:id:pua_4u:20240318225304j:image

この1年間の出会いは過ぎ去っていったもので、今何が残っているかと言われれば何もない。でもその時々で感じた、嬉しさとか悲しさとかそういったものは一瞬であれ人生を彩ったものであるから、できるだけ忘れないようにしたいし、これからある出会いに関してもそうしていきたい。そんな瞬間をたまに思い出しながら少しでも孤独を誤魔化して生きていくのが人生のような気がする。

きっと何も考えずにセックス気持ちいいな、とか考えながら街に出るのがナンパ師としては正解なんだと思うけど、あらゆることに意味を抽出したがる非モテみたいな性格は、100即しても抜けなかったようでそうはいかない。人間関係ってなんだろう?恋愛ってなんだろう?リアルがどのようなものであるか知るのにつれて、性愛に対する解像度が上昇して、考えなくてもいいような問いが頭の中を渦巻く。即れるようになるにつれて自分の存在の小ささを知る。この1年間、まだ10代だからとか言って若さを免罪符にして、思考を放棄してきた。「俺らはまだ若いからどうにでもなるよ」そう言って何度も同い年のクラスタと笑い合ったけど、いつかそれが通用しなくなる日も来る。このままでいいような気もするけどきっと駄目。正解はないから自分なりの答えを見つけなくちゃいけない。

まだ分からないことが沢山あるから、人と関わることを辞めるわけにはいかない。そんなことを理由にして恐らく街にはまだ出続けるんだろうな。